「ROE経営」の次は「価値創造」へ、経産省ガイダンスが示す企業改革の新指針

2026年7月21日、経済産業省は日本企業の持続的な成長に向けた「成長投資ガイダンス」を公表しました。これまでのコーポレートガバナンス改革は、ROEやPBRを軸に資本効率の改善を促し、企業収益や株主還元を押し上げてきました。しかし、設備投資や研究開発、人材投資、賃上げは十分に伸びていません。今回のガイダンスが示したのは、資本効率の改善をゴールとせず、成長投資による価値創造を拡大する新たな経営の方向性です。
利益と株価が上がっても成長できない日本企業
経済産業省が公表した「成長投資ガイダンス」は、単なる投資促進策ではありません。日本企業が何を目標に経営し、投資家が何を基準に企業を評価するのかという、企業経営の基本的な考え方を示した指針です。
日本のコーポレートガバナンス改革は、2014年の「伊藤レポート」を一つの起点として進んできました。同レポートは、日本企業の収益性が欧米企業より低いという課題を指摘し、資本コストを意識した経営やROEの向上、投資家との対話を求めました。
2015年にはコーポレートガバナンス・コードが導入され、取締役会の監督機能や情報開示、株主との対話が強化されました。東京証券取引所もPBR1倍割れ企業などに対し、「資本コストや株価を意識した経営」を求めています。
こうした改革は一定の成果を上げました。企業の収益力やROEは改善し、株価も上昇しました。配当や自社株買いといった株主還元も大幅に拡大しています。
ところが、経産省は日本企業が「新たなパラドックス」に直面していると指摘します。利益や株主還元が増えている一方で、その成果が設備投資、研究開発、人材育成、賃上げなど、将来の成長につながる支出へ十分に回っていないのです。
ガイダンスによると、2016年度を100とした場合、企業利益は約1.5倍、株主還元は2~3倍以上に増えました。一方、設備投資、研究開発投資、人件費などの成長投資は1.3~1.8倍程度の伸びにとどまっています。
日本企業は「稼げない企業」からは脱しつつあります。しかし、「稼いだ資金を次の成長へ大胆に振り向ける企業」には、まだ十分に変わり切れていません。今回のガイダンスは、資本効率の改善を中心とした改革から、成長投資によって価値創造を拡大する次の段階へ進むよう、日本企業に促しているのです。
株主還元が増えても成長投資が伸びない理由
企業に資金が蓄積されているにもかかわらず、なぜ成長投資は十分に増えないのでしょうか。経産省は三つの構造的な要因を挙げています。
第一は、資本コストを安定的に上回る収益を生み出せていない事業が、依然として多いことです。
企業は株主や金融機関から調達した資金を使って事業を行っています。そのため、資金提供者が求める収益を上回る利益を生み出さなければ、経済的な価値を創造したとはいえません。会計上は黒字でも、収益率が資本コストを下回る事業へ資金を投じ続ければ、企業全体の付加価値は増えません。
第二は、短期的な資本効率の改善を求める圧力です。
設備投資や研究開発、新規事業、人材育成は、投資した直後から利益を生むとは限りません。初期段階では費用が先行し、ROEや利益率が一時的に低下することもあります。投資家が短期的な利益や資本効率だけを重視し、企業側もその評価を過度に意識すれば、経営者は成果が出るまで時間のかかる投資を避けやすくなります。
第三は、成長投資と株主還元の適切なバランスについて、企業と投資家の共通理解が十分に形成されていないことです。
成長段階にあり、有望な投資先を持つ企業であれば、配当や自社株買いより成長投資を優先した方が、中長期的には株主にも大きな利益をもたらす可能性があります。一方、成熟企業で有望な投資先が少なければ、株主還元を厚くする方が合理的です。
ところが、日本企業では成長段階や投資機会にかかわらず、一定の配当を続ける傾向があります。
2023年度の売上高に対する設備投資、研究開発費、人件費の合計は、日本企業が17.7%だったのに対し、米国企業は29.4%、ユーロ圏企業は27.2%でした。日本企業は、特に研究開発費と人件費の比率で米欧企業を下回っています。
ガイダンスは、株主還元そのものを否定しているわけではありません。問題としているのは、株主還元が経営のゴールとなり、将来の競争力をつくる投資が後回しになることです。
企業の成長段階や収益力、投資機会を見極め、成長投資と株主還元の優先順位を明確にすることが求められています。
OEの限界を補うROIC・WACC・EPとは
今回のガイダンスを理解する上で重要なのが、ROIC、WACC、EPという三つの概念です。
これまで日本企業が重視してきたROEは、自己資本に対してどれだけ利益を上げたかを示す「自己資本利益率」です。株主から預かった資本を効率的に使えているかを測る重要な指標ですが、限界もあります。
例えば、配当や自社株買いで自己資本を減らせば、利益が増えていなくてもROEは上昇します。借入金を増やして自己資本を圧縮することでも、数値を高められます。
したがって、ROEの改善が、そのまま新製品や技術の創出、企業の成長力向上を意味するわけではありません。経産省も、企業には多様性があり、ROEだけで機械的に評価すべきではないと指摘しています。
そこで重視されるのがROICです。ROICは「投下資本利益率」と訳され、事業に投じた資本から、どれだけ利益を生み出したかを示します。企業全体だけでなく、事業部門ごとの収益性を比較する際にも有効です。
一方、WACCは「加重平均資本コスト」です。株主が求める期待収益率と借入金などの負債コストを加重平均し、企業が資金を調達するために負担しているコストを表します。
重要なのは、ROICがWACCを上回っているかどうかです。例えば、ROICが10%、WACCが6%なら、企業は資本コストを4ポイント上回る利益を生み出しています。反対に、ROICが4%、WACCが6%なら、会計上は黒字でも、経済的には価値を毀損していると考えられます。
この差が「ROIC-WACCスプレッド」です。そして、ガイダンスが企業と投資家の共通言語として提示したのが、EP、すなわちエコノミック・プロフィットです。
EPは、概念的には次の式で表されます。
EP=投下資本×(ROIC-WACC)
ROICとWACCの差を広げるだけでなく、価値を生む事業への投下資本を増やすことで、企業が創造する価値の総量を拡大する考え方です。
ただし、経産省はEPを唯一の評価基準にするよう求めているわけではありません。一律の開示や目標設定を義務付けるものでもなく、企業と投資家が中長期的な価値創造について対話するための参照軸と位置付けています。
「価値創造」で企業経営はどう変わるのか
成長投資ガイダンスによって、企業経営はどのように変わるのでしょうか。
まず、事業ポートフォリオの見直しが進むと考えられます。企業は各事業のROICとWACCを把握し、どの事業が価値を生み、どの事業が価値を毀損しているのかを明確にする必要があります。ガイダンスによると、日本企業では、価値を毀損している事業セグメントへの投下資本が全体の約65%を占めています。成長事業が生み出した価値が、低収益事業によってほぼ相殺されているのです。
今後は、企業グループ内に残すことが必ずしも最善ではない事業を売却し、その価値を最も高められる企業に委ねる「ベストオーナー原則」が重視されます。M&Aも、単に売上規模や市場シェアを拡大する手段ではありません。低収益事業から撤退し、成長分野へ資本、人材、技術を再配分する手段として位置付けられます。
次に、設備投資だけでなく、無形資産への投資が重要になります。AI、ソフトウエア、データ、研究開発、ブランド、デザイン、人材教育、組織能力などへの投資は、短期的には利益を押し下げます。しかし、中長期的には競争力や価格決定力を高め、ROICを押し上げる源泉になります。賃上げの位置付けも変わります。ガイダンスは、賃上げを単なる利益の分配ではなく、優秀な人材を引き付け、生産性向上を促す成長投資と捉えています。
さらに、取締役会やCFOの役割も重くなります。経営陣は、売上高や利益の目標を示すだけでなく、どの事業にいくら投資し、どの程度の期間で資本コストを上回るリターンを実現するのかを説明しなければなりません。投資家側にも、短期的なROEや利益の低下だけで機械的に判断せず、企業の成長戦略や投資の時間軸、リスクとリターンを実質的に評価する姿勢が求められます。
日本のガバナンス改革は、ROEやPBRを改善する「資本効率重視の改革」から、成長分野へ資本を振り向け、価値創造の総量を増やす改革へ移ろうとしています。企業に問われるのは、現金をいくら持っているかでも、株主へいくら還元したかでもありません。どの事業で価値を生み、その価値をどの成長分野へ再投資し、企業と社会をどこまで成長させられるかです。
「成長投資ガイダンス」は、資本効率の改善を最終目的とせず、価値創造、成長投資、賃上げ、株主還元が循環する経営を求めた、日本企業の新しい羅針盤といえるでしょう。
文=KIJIKUL編集部
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